バラエティ番組が、怖い

 

 恐怖なんて、無くもがなである。

 ――と片づけてしまふ人は、話にならない。

 日本のSF小説の始祖とも言われる海野十三は、その随筆「恐怖について」のなかでこう述べている。全文は青空文庫の方で確認していただくとして、恐怖と言うものに自分が襲われるのはかなわないけれども、そういう恐怖について聞くのはきわめて興味深いものである、という彼の意見にはただうなずくばかりだ。

 そう、私達は常に恐怖を欲している。「百物語」といえば恋バナと並んで修学旅行の夜の話題の主役であるし、夏場にはホラー特集がこぞってテレビで放送される。映画や小説の世界でも「ホラー」は一大ジャンルを築いており、聞くところによると、米国人がホラー映画に支出するお金は1年間に5億ドルに及ぶらしいのだから驚きだ。海を挟んだイギリスにおいても、ヘンリー・ジェイムズ「ねじの回転」の冒頭で描写されている通り、幽霊譚というのはクリスマスイヴの定番イベントであるらしい。インターネットの世界においても「怖い話」の愛されっぷりは例外でなく、適当な単語で検索するとその種のまとめがどっさり見つかった。その他にも、肝試しやお化け屋敷など、恐怖が人々に「消費」される例は、枚挙にいとまがない。「恐怖」というのは生物の防衛本能であるから、当然忌避と畏れの対象だが、その一方で私達は、恐怖に悲鳴を上げ、手で顔を覆いながらも、開いた指の隙間から、そっと覗き見る事をやめられないのである。

 しかし、なぜ人々は恐怖を欲し、震えあがりながらも嬉々として消費するのだろうか。 この記事では、脳神経科学や心理学といった見地からその理由が様々に解説されているが、ここに私は、持論として「他人と共有できる人類共通の感情だから」というものを付け加えたい。百物語や怪談会は言わずもがな、多くの場合複数人で行われるお化け屋敷や肝試しなんかは、「恐怖の共有」のよい例であるし、カウンセリングなんかも、「心にわだかまる不安や恐怖を語り、分かち合う」という点で、その中の一つと言えるかもしれない。「怖い夢は人に話すと正夢にならない」なんて定説があるが、その真偽は措くとしても、「こわい」体験は誰かに話し共有してもらうことで初めてその呪縛から解き放たれ、エンターテイメントにまで昇華されうるのだと思う。

 だが、翻って言えば、共有されない恐怖は常にその肩に強くのしかかる。何度も言うとおり恐怖というのは人類共通の根源的な感情なので通例分かち合うことは容易だが、まれに、「なんでそんなものが?」というような些細かつ瑣末な事象を恐怖の対象としている人というのは存在して、その中の一人が私である。以上、全て前置きで、今から私の「なんでそんなものが?」について一方的に閲覧者のみなさまと共有を試みたい。

 

 何が怖いのか。結論から言うが、バラエティ番組である。

 物ごころついてからの、揺るがぬ認識である。バラエティ番組が怖い。

 割と尋常じゃないレベルで「だめ」で、見ていると瞬く間に精神が消耗してくるし、その時のコンディションによってはその後数時間使い物にならないレベルで怖い。とにかく見ていられない。家でなら家族が見だしても自室という避難場所があるのでまだいいが、友達の家や合宿先だと好きに席を外すわけにもいかなかったりしてなお辛い。テレビの置いてある定食屋など、ほとんど地雷原である。近年、ほとんどの番組がバラエティであるから、安心して見ていられるのはNHK放送大学くらいのもので、集団生活にも支障が出るので早いところ克服したいのだが、もう十代も終盤となった現在においてもいっこうに慣れない。

 皆がリラックスし笑って見ているものを自分はなぜ見れないんだろう、と昔から不思議でならなかったし、誰かにそれとなく相談してみても「え?なんで?」と逆に聞き返されるぐらいであったので、ずっと「なぜ怖いのか分からないのが、また、怖い」という二重に「怖い」状況だったのだが、今回、改めてじっくり考えてみて、「真顔のハイテンション」の怖さなのかな、と暫定的に結論した。

 バラエティ番組というのは娯楽性が第一であって、視聴者を笑わせないと話にならない。視聴者の年代や属性には当然ながら幅があって、その中で少しでも多く笑いをとるために、笑いの方向はどうしてもシンプルでストレートなものになる。出演者たちはハイテンションで派手なパフォーマンスを繰り広げ、背景では場面場面に合った軽快な音楽が流れ、カラフルなテロップが画面を踊る。様々な方法で、景気の良さ、賑やかさが演出される。

 しかしそれは結局故意に「演出されたもの」に過ぎない。カメラが止まればキャスト達は全員真顔で台本の確認に戻るし、進捗状況によっては、スタッフ一同時計とにらめっこしながらの収録だったりする。さらにその背後にはいつも視聴率やビジネスというシビアなものが厳然と存在して、だから彼らは一見高揚していながら、その実いつも真顔なのだ。

 私にはそのギャップが怖い。近年のバラエティの方向性を是非をうんぬんしたいわけではなく、ハイテンションのその背後に、ひやりとするようなシビアさが顔をのぞかせている、その落差がただただ恐ろしい。視覚的に表現するならば、「眼だけが笑っていない」。はっきり言って狂気を感じる。

 私には、満面の笑顔で人目を引くパフォーマンスを繰り広げる彼らが、時折こちらを覗き込んでいるように思えてならない。彼らは時々ぞっとするほど乾いた目でこちらに向かって振り向いて、「面白い?」「チャンネルはそのままで頼むよ」「こんな炎上すれすれのパフォーマンスやってんだからさあ」と感情のこもらない低い声で呟く。それは一瞬のことで、すぐまた明るい表情をその顔にはりつけて何事もなかったかのように演技を続ける。自意識過剰極まりないし、こうして文字に起こすとなんだかノイローゼの様相も呈してくるようで甚だ恥ずかしい限りなのだが、そんな風に感じられてならないのだ、どうしても。

 

(2012年ごろに別名義で書いたもの。どーでもいいけど昔のブログのデータがほとんど残っていなくて自業自得ながら凹む。)